1.17
阪神淡路大震災からもう25年も経ちました。
昨日1月17日、地元の神戸だけではなく、東京でも追悼式典があり、
マスコミが大きく取り上げていました。
筆者も在宅時にこの地震を経験しました。
マスコミでも、首都直下地震や南海トラフでの巨大地震のことが、頻繁
に取り上げられるようになりました。
地震への警戒感が高まる中で、今回の記事は筆者の中で地震体験を風化
させない意味でも、筆者の災害への想いをまとめてみたいと思います。
神戸市庁舎最上階から、隣にある公園を臨む
今年の追悼式典の跡(1.17の文字)が残っていました
音がする地震は怖い
筆者は、大阪生まれの大阪育ち。
阪神淡路大震災を経験するまでは、大きな地震の記憶はありません。
2~3度小さな地震を経験はしましたが、地震への警戒感は皆無でした。
地震って関東のことだよね・・・
関係ないよね。
そんな感覚だったのです。
確かに関西地区は関東のように地震はなかったことは確かです。
地震の当日、仕事が忙しかったので早く会社に行こうと早起きをしまし
た。
2階の部屋で嫁と生まれたばかりの娘と寝ていたのですが、部屋の扉を
開けようとした時に、“音”が聞こえたのです。
ド~ン、ド~ン、ド~ン
確か3回なったと記憶しています。
音と共に縦揺れがありました。
最初は、2kmくらい離れたところにある採石場でダイナマイトでも使
ったのかと思いましたが、まだ朝の6時前。
おかしいと思った瞬間、今度は猛烈な横揺れに見舞われました。
立っていることができないほどの揺れでしたが、とっさの判断で部屋の
中で寝ていた娘の上に覆いかぶさり、上からものが落ちてこないように
したのを覚えています。
嫁はというと、座ってただ手を合わせるだけでした。
「何もできない」
というのが本音でした。
本当に何もできない。
立っていることもできない状態でした。
なんとか揺れが収まった後、1階に降りてテレビをつけましたが、まだ
地震の速報はありませんでした。
しばらくして、震源が北陸というアナウンスがあったのですが、その後
に本当の震源は地元神戸であることが分かりました。
地震の前の年に神戸市内から六甲山の裏側に引っ越して家を建てたばか
り。
家には数か所ヒビが入りましたが、なんとか大きな被害は免れました。
一足先に仕事に出かけた義母が家に帰ってきました。
電車が動いていないことが分かった筆者は、家の周りを点検した後、車
で出勤を試みることにしました。
家を出る前にテレビを見ると、神戸の街から何本かの黒い煙が立ち上る
のが見えたのです。
そう既に神戸では火災が多発しつつあったのです。
冬の寒い朝、どこの家でも起き始めて、ちょうど朝ごはんの支度にかか
る時間帯です。
どこの家も暖房器を付けたばかりで、火を取り扱う危険な時間帯でした。
常に不測の事態を予測することは難しいのだと痛感しました。
そして、度々起こる余震。
その余震も“音”が伴うのです。
揺れる前から、地の底から湧き上がってくるような“ゴ~ォ~”という音
が聞こえました。
まさに地震を足元に感じる瞬間です。
とにかく、“音”が伴う地震は特別だと思ってください。
直ちに命を守る行動が必要です。
地震から25年、神戸の街もようやく元気を取り戻したように見えます
社会インフラの恩恵が身に染みる
家を出て車を走らせる先には六甲山が見えました。
あの山の向こうでは、今大変なことが起きているんだと思いながら、車
を走らせ市街地に入ると、困ったことが起きていました。
停電の影響で、信号機が全て消灯していたのです。
「怖くて交差点に入れない」
信号機が使えない中で車を走らせる難しさを初めて体験しました。
何とか高速道路の入り口にたどり着いたものの、やはり高速道路は使え
ませんでした。
諦めて最短で大阪に向かう国道へと車を走らせると、もう大渋滞は始ま
っていました。
普段意識せずに使っている社会インフラ。
災害の時には使えないのです。
それも頭の中に入れておかなければなりません。
阪神淡路大震災の震源は、淡路島北部から始まる活断層でした
日本のサラリーマンは世界一
仕方ない。
山越えをするか!
六甲山系にはトンネルだけでなく、多くの峠越えの道があります。
古くからある大阪・神戸から六甲山系の裏側に抜ける道です。
有馬温泉から宝塚に抜ける道を選択し、蓬莱峡という渓谷に差しかかっ
たところでまた大渋滞。
渋滞の原因は、山から落下した巨大な岩が道路の上に転がっていたから
でした。
それも至る処で。
殆どの車が、運転手だけの一人乗車。
おそらく筆者と同じで、大阪方面に向かうサラリーマンなのでしょう。
ここでは、日本人の良いところを見ることができました。
道路の上に転がる巨石を避けて、空いているスペースを1台1台車が
すり抜けて行きます。
それも登り下りの車が交互に1台ずつ順序よく。
譲り合い、気遣い、交差するときには手を上げて感謝をする。
こんな非常時にも、こんなことが当たり前のようにできるのは日本人の
良い所ではないかと思いました。
でも、そんな時にも余震が起きます。
そのたびに車の運転手は、揃って山の方を見るのです。
皆さん、山の上から岩が落ちてこないか確認しています。
まさに命がけです。
そこまでして会社に行くのか。
まさに責任感を超えて、なにか使命感まで感じてしまいました。
筆者は、この蓬莱峡での時間帯に、
日本のサラリーマンはやっぱり凄いぜ!
と思いました。
あれから25年経ちました。
今のサラリーマンたちはこれと同じことをするのでしょうか?
会社への想いはどのように変わっているのでしょうか。
驚愕の風景
やっとのおもいで会社に到着。
家を出て5時間もかかりました。
11階の自分のオフィースにつくと、多くの社員が出社して片づけを始
めていました。
多くのコンピュータ用のディスプレイが落下して壊れていました。
書類ラックは、くの字に折れ曲がり、天井板の多くは床に落ちて散乱し
ていました。
一番驚いたのは、窓際にあった筆者の机です。
いらない書類が山ほど入った大きな机が、普段の位置から2mも前に吹
っ飛んでいました。
とても一人では移動できない代物です。
地震の威力の凄まじさを感じました。
ビルそのものは免振構造の高層建築物なので、大丈夫なように見えまし
たが、エレベータが使えないために登った非常階段では壁に数m規模の
亀裂が無数に確認できました。
オフィースの片づけは夜まで続き、19時には会社を出ました。
何人かの部下を家まで送り届け、家路に着いたのは21時頃。
結局家にたどり着いたのは、翌朝4時でした。
災害発生時には、自分はどのように動くのか、
家族や会社との連携はどうするのか、
普段から決めておく必要があると思います。
阪神淡路大震災の後も、地震が続いて発生しています。
加えて、風水害も多発しています。
災害はいつ来るかはわかりません。
しかし、首都直下地震も南海トラフ地震も必ず来るのです。
人間の力では、災害が来るのを防ぐことはできません。
人間にできることは、イマジネーションを働かせることだと教えて頂き
ました。
起きたらどうするのか。
災害時に身を守ることとともに、
自分で、自身の復興を考えることも重要なのです。
阪神淡路大震災の時は、高齢化率は20%を下回っていました。
地震の後、復興住宅では多くの方が孤独死で亡くなっています。
もう高齢化率は30%に届きそうです。
災害弱者といわれる高齢者の数は、阪神淡路大震災の時よりもはるかに
多いのです。
災害が起これば、困難なことが多く発生する可能性があります。
自身の身をどう守るのか、自身と地域の復興をどう考えるのか。
1.17から25年、こんな節目の時に考えてみることは、無駄には
ならないと思いました。
今回の記事も最後まで読んでくださり、感謝申し上げます。